「山桜」を観る
2008年 06月 17日
広い年齢層から指示され、いまや一番時代劇映画になるといっても過言ではない藤沢周平作、東山紀之&田中麗奈主演の「山桜」を観てきました。
実際の尺よりゆったりと感じる時間の流れ、少ないセリフ回しの行間に感じる思いやりや、人を愛しむ心。東山さんも麗奈ちゃんも「日本髪が似合わない」とか「っぽくない」とか言われる方もいらっしゃるみたいですが、なにも時代劇に出る俳優さん皆がみな髷や羽織が似合うとは限らない。(ってか私的には似合ってたし。)
素朴に率直に、感じて思うことの大切さや、回り道のない人生はないのだ、等と感じられる深いながらも見易い作品でした。
↓ネタばれ少々。斬捨て御免。
野江(田中麗奈)は先の嫁ぎ先の夫に先立たれ、今は武士の風上にも置けないような、副業に金貸しを営む業突く張りの磯村家に入ってる。実家の身内の墓参りもままならない窮屈さに、息苦しく感じながらも武士の娘として、耐え忍ぶ日々であった。
やっと叶った墓参りの帰り、空いっぱい咲き誇る山桜につい手を伸ばす。
「手折ってしんぜよう」
野江に声をかけたのは手塚弥一郎(東山紀之)。後の嫁ぎ先を決めるおり、是非にと申し出ていたのが彼であった。しかし母子の家庭に気苦労を案じた野江の母(壇ふみ)が断った、という経緯が。
昔は死別でも、出戻った子のない娘であれば、急いで次の嫁ぎ先を世話するのが親の務めであったでしょう。(いまでもか?)しかしながら、どうしてこの家?っと思ってしまう程、武士の沽券に係るぞよっ、てくらいの所業と物言いな磯村家。しかもダンナ‘冬彦さん’だし。サビシー。やだー。
「今はお幸せであろうの」
野江を案ずる弥一郎の言葉は、ここ最近はそんな言葉などは家族に望めるはずもないと、野江自身も忘れていたような響きで、心が満たされ、胸の熱くなるのである。
通り一遍でない、相手を思いやる言葉は、どんなプレゼントより有難いものだ。
東山さんも麗奈ちゃん、しゅっとした眉と目で、お雛様みたいです。
どんな演技を見せてくれるのかな?と思ったのですが、無理のないかんじで良かったのでは。
野江の実家、浦井家は父上が篠田三郎さん。今も昔も格好いいー。
父上は磯村に嫁いだ娘が幸せとは思えない。しかし、過ぎたことをうじゃうじゃ言わないのも武家。でも、弥一郎から武芸の稽古をつけて貰っている弟は、姉の野江がたとえ二度目の出戻りでも帰ってきて欲しい・・・(弥一郎と一緒になって欲しい、少なくとも今の姉は不幸せ)
本来、家族の幸せを願う時、メンツがとか、小姑になるとかは実際あまり関係ない。
ただただ世間が勝手に「出戻りの小姑は面倒で不幸せ」って決めただけなんですよねー。
劇場は、圧倒的にご年配が多く、腰痛持ち(笑)の自分でもミョーに若く感じました。
時代劇だから・・・というより、やはり藤沢作品だからでしょう。
劇場には、弥一郎と野江の着物が展示されており、いつものそれとは違った空気でした。
時同じく磯村家がコバンザメとしてかしずく藩の重臣・諏訪(村井国夫)は、近年の天災不作をいいことに、荒地を豪農に開墾させ、甘い汁を吸おうと画策する。その上重税を課し小作人の中には食うことにも困り死人まででた。皆、諏訪のやり方に不満であるが、いいお家柄故に特に策もなく、手を拱いている。
ついに弥一郎は、諏訪を斬る。正々堂々と。
時代劇ですが、武道場の稽古の様子と、ここのシーンしか殺陣は出ません。
一連の藤沢作品の中でも地味でしょう。しかし、家族の繋がりを感じられるのはこの作品が一番かな、と個人的に思いました。
弥一郎を馬鹿にした夫に刃向かい(って睨んだだけー)、離縁をされる野江。
すぐに切腹にならない弥一郎。
二人の行く先はどうなるのでしょうか、エンディングでも判りません。
でも、たとえ困難があろうこの先に、穏やかな生活があるに違いないと感じられます。
こういった作品は特に観る人の経験や環境が大きく係るかもしれません。
私は、明らかに重臣・諏訪様も磯村家も、大嫌いなタイプの人達です。
が、実際今の世にも、こういった自らの品位を貶めても金に執着する人が蔓延っており、時に、それが正しい生き方かも?な風潮さえあります。
野江は出戻りの嫁なのだから、大人しく手に職をつけ、上手いこと夫を手なずけ義親の亡き後に財産を好きにすれば賢い、のかもしれません。
諏訪様はよい家柄の武家だから、迎合して上手いこと甘い汁を吸い、多少農民が苦しんでも、自分たちが困る訳でもないので、耳でも塞いでおけばよし、なのかもしれません。
・・・・って、そんなの絶対嫌!
現実の世にも弥一郎のようなお方が多々おいでになることを望みます。
題字が双雲氏で、意外な感じがしました。なんか繊細な字も書かれるのですね。
生けてあった花(山桜)もヨカッタ、どなたか見損ねたちゃいました。
「山桜」@映画生活
実際の尺よりゆったりと感じる時間の流れ、少ないセリフ回しの行間に感じる思いやりや、人を愛しむ心。東山さんも麗奈ちゃんも「日本髪が似合わない」とか「っぽくない」とか言われる方もいらっしゃるみたいですが、なにも時代劇に出る俳優さん皆がみな髷や羽織が似合うとは限らない。(ってか私的には似合ってたし。)
素朴に率直に、感じて思うことの大切さや、回り道のない人生はないのだ、等と感じられる深いながらも見易い作品でした。
↓ネタばれ少々。斬捨て御免。
野江(田中麗奈)は先の嫁ぎ先の夫に先立たれ、今は武士の風上にも置けないような、副業に金貸しを営む業突く張りの磯村家に入ってる。実家の身内の墓参りもままならない窮屈さに、息苦しく感じながらも武士の娘として、耐え忍ぶ日々であった。
やっと叶った墓参りの帰り、空いっぱい咲き誇る山桜につい手を伸ばす。
「手折ってしんぜよう」
野江に声をかけたのは手塚弥一郎(東山紀之)。後の嫁ぎ先を決めるおり、是非にと申し出ていたのが彼であった。しかし母子の家庭に気苦労を案じた野江の母(壇ふみ)が断った、という経緯が。
昔は死別でも、出戻った子のない娘であれば、急いで次の嫁ぎ先を世話するのが親の務めであったでしょう。(いまでもか?)しかしながら、どうしてこの家?っと思ってしまう程、武士の沽券に係るぞよっ、てくらいの所業と物言いな磯村家。しかもダンナ‘冬彦さん’だし。サビシー。やだー。
「今はお幸せであろうの」
野江を案ずる弥一郎の言葉は、ここ最近はそんな言葉などは家族に望めるはずもないと、野江自身も忘れていたような響きで、心が満たされ、胸の熱くなるのである。
通り一遍でない、相手を思いやる言葉は、どんなプレゼントより有難いものだ。
東山さんも麗奈ちゃん、しゅっとした眉と目で、お雛様みたいです。
どんな演技を見せてくれるのかな?と思ったのですが、無理のないかんじで良かったのでは。
野江の実家、浦井家は父上が篠田三郎さん。今も昔も格好いいー。
父上は磯村に嫁いだ娘が幸せとは思えない。しかし、過ぎたことをうじゃうじゃ言わないのも武家。でも、弥一郎から武芸の稽古をつけて貰っている弟は、姉の野江がたとえ二度目の出戻りでも帰ってきて欲しい・・・(弥一郎と一緒になって欲しい、少なくとも今の姉は不幸せ)
本来、家族の幸せを願う時、メンツがとか、小姑になるとかは実際あまり関係ない。
ただただ世間が勝手に「出戻りの小姑は面倒で不幸せ」って決めただけなんですよねー。
劇場は、圧倒的にご年配が多く、腰痛持ち(笑)の自分でもミョーに若く感じました。
時代劇だから・・・というより、やはり藤沢作品だからでしょう。
劇場には、弥一郎と野江の着物が展示されており、いつものそれとは違った空気でした。
時同じく磯村家がコバンザメとしてかしずく藩の重臣・諏訪(村井国夫)は、近年の天災不作をいいことに、荒地を豪農に開墾させ、甘い汁を吸おうと画策する。その上重税を課し小作人の中には食うことにも困り死人まででた。皆、諏訪のやり方に不満であるが、いいお家柄故に特に策もなく、手を拱いている。
ついに弥一郎は、諏訪を斬る。正々堂々と。
時代劇ですが、武道場の稽古の様子と、ここのシーンしか殺陣は出ません。
一連の藤沢作品の中でも地味でしょう。しかし、家族の繋がりを感じられるのはこの作品が一番かな、と個人的に思いました。
弥一郎を馬鹿にした夫に刃向かい(って睨んだだけー)、離縁をされる野江。
すぐに切腹にならない弥一郎。
二人の行く先はどうなるのでしょうか、エンディングでも判りません。
でも、たとえ困難があろうこの先に、穏やかな生活があるに違いないと感じられます。
こういった作品は特に観る人の経験や環境が大きく係るかもしれません。
私は、明らかに重臣・諏訪様も磯村家も、大嫌いなタイプの人達です。
が、実際今の世にも、こういった自らの品位を貶めても金に執着する人が蔓延っており、時に、それが正しい生き方かも?な風潮さえあります。
野江は出戻りの嫁なのだから、大人しく手に職をつけ、上手いこと夫を手なずけ義親の亡き後に財産を好きにすれば賢い、のかもしれません。
諏訪様はよい家柄の武家だから、迎合して上手いこと甘い汁を吸い、多少農民が苦しんでも、自分たちが困る訳でもないので、耳でも塞いでおけばよし、なのかもしれません。
・・・・って、そんなの絶対嫌!
現実の世にも弥一郎のようなお方が多々おいでになることを望みます。
題字が双雲氏で、意外な感じがしました。なんか繊細な字も書かれるのですね。
生けてあった花(山桜)もヨカッタ、どなたか見損ねたちゃいました。
「山桜」@映画生活
by bijomaru0330am | 2008-06-17 23:45 | 映画鑑賞