「パンズ・ラビリンス」を観る
2007年 04月 19日
またまたアカデミー受賞(撮影・美術・メイクアップ)作品を試写する機会に恵まれました。日本ではこの秋に公開予定なので、少し早めの試写会です。
「パンズ・ラビリンス」、直訳すると“妖精パンの迷宮”でしょうか。
ダークで、魅惑的で、人間の弱さと儚さとが併せ持たされたとても芸術性の高い作品でした。
舞台は1944年のファシズムが台頭するスペイン。
かのブルボン王朝が倒れ、共和制がしかれた国内では、国の成長期にはままある内戦時期が続きます。第二次時世界大戦の開戦は1939年、連合軍の優勢が報じられてきた時期は、1943年、独裁政治が徐々に崩壊していくまさに過渡期が時代背景ですから、明るい話題は少ない事がうかがえます。
(↓ここからネタバレ含みます。鑑賞予定の方は読まない方がいいかもです)
主人公の少女オフェリアは母の再婚に伴い、山深い森の奥にある軍の拠点を守る、大尉の元に引っ越してきます。母は大尉の子を身ごもった臨月で自分の体調管理にめいっぱい。娘のオフェリアのことは二の次です。国情は荒れ、内戦で実の父を亡くし、ただでさえ多感な時期のオフェリアは心細い上に寂しく、大好きな本(童話)の世界に浸っています。それは、妖精パンが住む地中深い王国の話、「パンズ・ラビリンス」です。
母は寂しさから母である前に女の性を取った弱い人。大尉は暴君と呼ぶに等しく、どうやら自分の子を宿した母には興味はあれど、義理の娘には関心が全くない・・・どころか疎ましくさえ思っている様子。確かに生きるか死ぬかの戦地に子供がいても足手まといなだけなのではあるが。
引越しの途中、バッタともカマキリとも判らない一匹の虫が、オフェリアに何かしら合図を送ってくる。幼い時期だけに許される創造と空想の虚の世界。母に愛されたいオフェリアは懸命に話をするのだが、具合も悪い母は新しい夫への気遣いのみで娘の成長期の“好奇心の芽”をうまく育ててはくれないのだ。
この“虫”。今風に書くと、ちょっとキモい。
オフェリアが「妖精はこんな姿よ(ティンカーベル風)。」と見せる挿絵に、バキバキと自らの体を変化させる。
この辺りから既に怪しげな空気は画面全体に広がり、不安げ(でも興味深々)にするオフェリアの気持ちと観客の心をイコールにしてくれます。
大尉に仕える女中(名前忘れました)の彼女は、そんなオフェリアに優しく接する。
必死に妖精の話をするオフェリアに、子供の時には見えたけど、大人の今は見えない、と聞く耳と良識ある回答で諭す。一旦は彼女に促され屋敷の中で大人しくしていたオフェリアだが、居心地の悪さはパンの誘いを迷うことなく受け入れ、ラビリンスの入り口に立つのです。
大きな分類で‘ラビリンス=(迷宮)’が出てくるお話、「不思議な国のアリス」しかり、「オズの魔法使い」しかり、必ず主人公は課題や‘試練’を乗り越えなければその先が見えてきません。
昨今の児童文学ブームの覇者「ハリー・ポッター」でも「ライラの冒険」でも勿論同じようなことがいえます。オフェリアも三つの試練を与えられ、それをクリアしたら地中の王国に行ける、と云われるのです。
与えられた‘試練’と平行して起こる現実での‘試練’。現実問題様々な‘試練’を乗り越えて、子供は段々に大人に成長していくものです。それは避けられない事実。
男の子より女の子の方が、この手のお話の主人公になっている事が多いように思えるのは、やはり女性の方がいろんな意味で受け入れなくてはいけない現実が、将来待っているからでしょうか。
この作品の監督ギレルモ・デル・トロ氏はあの「ミミック」を作った人。この時点で気味が悪く独特な作品を想像出来ますが、アカデミーでも賞を獲得している美術面で、「メン・イン・ブラック」などに係わっているデザイナーも参加しているからか、兎に角出てくる‘生き物’がキモい(しつこいかな?)ー。子供だったら泣きそうです。
また、プロデューサーに「ハリー・ポッターアズカバンの囚人」の監督アルフォンソ・キュアロン氏が参加、そう云われればなるほど、と思う演出も多かったです。
「アズカバン」を見たことがある人はお分かりでしょうが、時間軸の表現と俯瞰的な映像、このあたりの特徴が今作でも見受けられました。また魔法的な不思議な現象の様子も似ているかな、と「軽いポッタリアン」の私は感じました(全く違うモノですよ!)。
ゲリラを倒しに出撃する騎馬隊の様子と重なるように意を決してシダの茂みを分け入り、課題をこなそうとするオフェリア。課題の書かれた大きな本は、文字が書かれておらず、オフェリアが指でなぞると浮き出てきます。まるで「忍びの地図」みたい。
平面なスクリーンなのに三次元的な空間と、不思議なおどろおどろしさの中にファンタジーがあってとても個性的な映像です。
パン自身も相当奇妙な姿(個人的には羊?とか思った)ですが、「三つの試練」のうち、二番目に出てくる・・・「転寝しているのは人間でない」・・・は日本昔話・鬼子母神様のようです(わわ、ネタバレですね)。部屋の様子もちょっとオリエンタルで、すっごい不気味で怖い。恐ろしいシーンです。
恐ろしくて怖くて仕方ないのに、オフェリアは地中の王国へ行くことに、現実には手に入らない安息をも求めていく様です。内乱で毎日銃声は響き人が殺され、義父には愛を感じません。臨月の母は寝込みっぱなしだし、優しい女中さんもなにやら大きな隠し事がある様子。
まだ子供であるオフェリアには、どんなに怪しい誘いでも、自分独りに向けられた言葉には耳を傾けなければむしろ生きては行けなかったのではないでしょうか。
ぐずるオフェリアを「もう大きいのだから」と突き放す母。そんな母の具合と腹の子を案じ、パンに子供を無事に出産できる様に頼むオフェリア。不憫でなりません。
義理の父はお腹の子(息子と信じて疑わない)さえ無事ならいいと思っているエゴイストなのに。
この義父である大尉自身も身なりは大人なのに成長し切れず、亡き父へのコンプレックスの中で生きています。立派な軍人であった亡き父と比べられる自分。人間はある程度の時期に愛情を注がれなければ、栄養だけでは育たない生き物なのです。
彼はかくも弱く、残酷で、その裏返しに捕らえた者を武器ではない道具で痛めつけます。
それは日常確かに取り扱いに注意しなければ怪我をする「道具」。「道具」で人を苦しめるなんて。しかし「道具」で彼は結果傷つくのです。
そしてそんな彼の行く末は、自ずから自然と決まってしまうものです。
オフェリアの試練と平行して起きる内戦の様子。自由への扉の為に戦う人民達。
現実の光明が差し始めたか、と思う終盤、三つ目の課題がオフェリアに立ちはだかります。
オフェリアは立派にしっかりした少女から乙女への階段を一歩上がったのだ、と思います。彼女の素直な心がきっと王国に届き、彼女はきっと幸せなのだ、と思わないと切なくて切なくて涙があふれるのを抑えることが出来ませんでした。
オフェリアの母くらいの女性として個人的に思うことも感じることも多かったけど、御伽噺らしく、最後の「注釈」が観客の心を救っているわよねぇ、と思わないと立ち上がれないくらいのダークなダークなファンタジーでした。
秋で様々な色が深まる時期に公開がピッタリの作品です。
「パンズ・ラビリンス」@映画生活
「パンズ・ラビリンス」、直訳すると“妖精パンの迷宮”でしょうか。
ダークで、魅惑的で、人間の弱さと儚さとが併せ持たされたとても芸術性の高い作品でした。
舞台は1944年のファシズムが台頭するスペイン。
かのブルボン王朝が倒れ、共和制がしかれた国内では、国の成長期にはままある内戦時期が続きます。第二次時世界大戦の開戦は1939年、連合軍の優勢が報じられてきた時期は、1943年、独裁政治が徐々に崩壊していくまさに過渡期が時代背景ですから、明るい話題は少ない事がうかがえます。
(↓ここからネタバレ含みます。鑑賞予定の方は読まない方がいいかもです)
主人公の少女オフェリアは母の再婚に伴い、山深い森の奥にある軍の拠点を守る、大尉の元に引っ越してきます。母は大尉の子を身ごもった臨月で自分の体調管理にめいっぱい。娘のオフェリアのことは二の次です。国情は荒れ、内戦で実の父を亡くし、ただでさえ多感な時期のオフェリアは心細い上に寂しく、大好きな本(童話)の世界に浸っています。それは、妖精パンが住む地中深い王国の話、「パンズ・ラビリンス」です。
母は寂しさから母である前に女の性を取った弱い人。大尉は暴君と呼ぶに等しく、どうやら自分の子を宿した母には興味はあれど、義理の娘には関心が全くない・・・どころか疎ましくさえ思っている様子。確かに生きるか死ぬかの戦地に子供がいても足手まといなだけなのではあるが。
引越しの途中、バッタともカマキリとも判らない一匹の虫が、オフェリアに何かしら合図を送ってくる。幼い時期だけに許される創造と空想の虚の世界。母に愛されたいオフェリアは懸命に話をするのだが、具合も悪い母は新しい夫への気遣いのみで娘の成長期の“好奇心の芽”をうまく育ててはくれないのだ。
この“虫”。今風に書くと、ちょっとキモい。
オフェリアが「妖精はこんな姿よ(ティンカーベル風)。」と見せる挿絵に、バキバキと自らの体を変化させる。
この辺りから既に怪しげな空気は画面全体に広がり、不安げ(でも興味深々)にするオフェリアの気持ちと観客の心をイコールにしてくれます。
大尉に仕える女中(名前忘れました)の彼女は、そんなオフェリアに優しく接する。
必死に妖精の話をするオフェリアに、子供の時には見えたけど、大人の今は見えない、と聞く耳と良識ある回答で諭す。一旦は彼女に促され屋敷の中で大人しくしていたオフェリアだが、居心地の悪さはパンの誘いを迷うことなく受け入れ、ラビリンスの入り口に立つのです。
大きな分類で‘ラビリンス=(迷宮)’が出てくるお話、「不思議な国のアリス」しかり、「オズの魔法使い」しかり、必ず主人公は課題や‘試練’を乗り越えなければその先が見えてきません。
昨今の児童文学ブームの覇者「ハリー・ポッター」でも「ライラの冒険」でも勿論同じようなことがいえます。オフェリアも三つの試練を与えられ、それをクリアしたら地中の王国に行ける、と云われるのです。
与えられた‘試練’と平行して起こる現実での‘試練’。現実問題様々な‘試練’を乗り越えて、子供は段々に大人に成長していくものです。それは避けられない事実。
男の子より女の子の方が、この手のお話の主人公になっている事が多いように思えるのは、やはり女性の方がいろんな意味で受け入れなくてはいけない現実が、将来待っているからでしょうか。
この作品の監督ギレルモ・デル・トロ氏はあの「ミミック」を作った人。この時点で気味が悪く独特な作品を想像出来ますが、アカデミーでも賞を獲得している美術面で、「メン・イン・ブラック」などに係わっているデザイナーも参加しているからか、兎に角出てくる‘生き物’がキモい(しつこいかな?)ー。子供だったら泣きそうです。
また、プロデューサーに「ハリー・ポッターアズカバンの囚人」の監督アルフォンソ・キュアロン氏が参加、そう云われればなるほど、と思う演出も多かったです。
「アズカバン」を見たことがある人はお分かりでしょうが、時間軸の表現と俯瞰的な映像、このあたりの特徴が今作でも見受けられました。また魔法的な不思議な現象の様子も似ているかな、と「軽いポッタリアン」の私は感じました(全く違うモノですよ!)。
ゲリラを倒しに出撃する騎馬隊の様子と重なるように意を決してシダの茂みを分け入り、課題をこなそうとするオフェリア。課題の書かれた大きな本は、文字が書かれておらず、オフェリアが指でなぞると浮き出てきます。まるで「忍びの地図」みたい。
平面なスクリーンなのに三次元的な空間と、不思議なおどろおどろしさの中にファンタジーがあってとても個性的な映像です。
パン自身も相当奇妙な姿(個人的には羊?とか思った)ですが、「三つの試練」のうち、二番目に出てくる・・・「転寝しているのは人間でない」・・・は日本昔話・鬼子母神様のようです(わわ、ネタバレですね)。部屋の様子もちょっとオリエンタルで、すっごい不気味で怖い。恐ろしいシーンです。
恐ろしくて怖くて仕方ないのに、オフェリアは地中の王国へ行くことに、現実には手に入らない安息をも求めていく様です。内乱で毎日銃声は響き人が殺され、義父には愛を感じません。臨月の母は寝込みっぱなしだし、優しい女中さんもなにやら大きな隠し事がある様子。
まだ子供であるオフェリアには、どんなに怪しい誘いでも、自分独りに向けられた言葉には耳を傾けなければむしろ生きては行けなかったのではないでしょうか。
ぐずるオフェリアを「もう大きいのだから」と突き放す母。そんな母の具合と腹の子を案じ、パンに子供を無事に出産できる様に頼むオフェリア。不憫でなりません。
義理の父はお腹の子(息子と信じて疑わない)さえ無事ならいいと思っているエゴイストなのに。
この義父である大尉自身も身なりは大人なのに成長し切れず、亡き父へのコンプレックスの中で生きています。立派な軍人であった亡き父と比べられる自分。人間はある程度の時期に愛情を注がれなければ、栄養だけでは育たない生き物なのです。
彼はかくも弱く、残酷で、その裏返しに捕らえた者を武器ではない道具で痛めつけます。
それは日常確かに取り扱いに注意しなければ怪我をする「道具」。「道具」で人を苦しめるなんて。しかし「道具」で彼は結果傷つくのです。
そしてそんな彼の行く末は、自ずから自然と決まってしまうものです。
オフェリアの試練と平行して起きる内戦の様子。自由への扉の為に戦う人民達。
現実の光明が差し始めたか、と思う終盤、三つ目の課題がオフェリアに立ちはだかります。
オフェリアは立派にしっかりした少女から乙女への階段を一歩上がったのだ、と思います。彼女の素直な心がきっと王国に届き、彼女はきっと幸せなのだ、と思わないと切なくて切なくて涙があふれるのを抑えることが出来ませんでした。
オフェリアの母くらいの女性として個人的に思うことも感じることも多かったけど、御伽噺らしく、最後の「注釈」が観客の心を救っているわよねぇ、と思わないと立ち上がれないくらいのダークなダークなファンタジーでした。
秋で様々な色が深まる時期に公開がピッタリの作品です。
「パンズ・ラビリンス」@映画生活
by bijomaru0330am | 2007-04-19 23:45 | 試写会