「BROTHERS OF THE HEAD」を観る
2006年 12月 12日
「BROTHERS OF THE HEAD」はシャム双生児といわれる「結合体双生児」の兄弟、トムとバリーが短くも強烈にパンクロッカーとして生きたの話です。
初めに書いておきたいのですが、今回この試写を応募して当てることが出来たのは、関係者なのか(!?)、通りすがりの善人なのか、その名も「ブラザーズオブザヘッド」さん。
お陰で観れましたよ、ありがとうございました。
さて、「結合体双生児」と聞いて、思い出すのはベトナムのベトちゃんドクちゃん兄弟ではないでしょうか。(ドクちゃんは今月結婚式を挙げるとか・・・おめでう!)
彼らは現在個々に生きていますが、医学の進んだ今の世でも切り離し手術は困難(共有する内臓や機能によっていろいろあるらしい)なことだそうで、主人公のトムとバリーはわき腹の一部がくっついた、そのままでその短い人生を終わります。
映像の折々に出てくる医師(役)の話しでは、循環器(心臓系)の一部を共有しているので、仮に切り離しを検討しても結果かなり難しいものがあったのでは?とのこと。
そんな現実を物心つくころから味わっていた2人は、幼い時から自分の希有な生まれと、これからの人生に何の夢も希望も持てていなかったように見えます。
ですが、幼い子供時分の映像は、ころころと笑顔で駆け回り、まるで天使が‘二人三脚’でもしているような具合で、可愛くて美しくて、仮に個々にすることが可能であってもばらけさせてはならないような(なんかよい書き方が出来ません、すみません)、変な気持ちが沸いてしまいました。
この話は戯曲の中に、ドキュメンタリー的な要素があり、その2人の人生を振り返る様な作りですが、まるで今迄ソコに彼らが生きていたかの様な、妙な感覚に堕ちる‘引き込まれ感’のある独特な作品でした。
(↓ここからネタばれあり)
※但し、読んでも害無し。どれほど読み知っても映像を見ない限り知りえない衝撃が今作にはあります。
シャム双生児として生まれたトムとバリーは自分達の生により、母も亡くし、頑なになった父により年頃の17~18歳まで外界や他人と完全隔離(離れ小島・・・もとい離れ半島)生活を姉と4人きりっで過ごします。
こんな暮らしがよいはずもなく、愛情の欠乏と人間らしい暮らしの欠如は、より如実に2人の心に歪みの元を作っていきます。
また身体のハンディは、当然ながらいつでもどこでも2人一緒の世界をつくります。
独りきりの寂しさはないけれど、また逆に2人でしか行動出来ない現実は、自我の芽生えた2人に時にわずらわしく、また空想の‘友’を御伽噺のように作り出させたりと精神衛生上のハンディも背負わす。
イギリスらしい曇った空のもと、上半身裸の少年は奇妙だけれど大人の男にはない中途半端な性の香りと、ミステリアスな雰囲気を醸し出しています。
ドームやガレのガラス作品のようにくぐもった色に死んだ虫々。
彼らの心の闇を表す映像は美しくも儚く、危険で、それでなくても弱い彼らのもろさそのものでした。
「自立」いう名の体のいい人身売買を、父により「契約」という形で交わされた2人は、ロッカーになるべく教育されます。仲間として集まった人々は、2人を好奇の目では見ていたし、金と名声と音楽という麻薬(本当の麻薬もあるが)である種マヒしていた。
あまりに無知な無防備な彼らに、音楽の喜びを教え与えはしたが、世の中を生きる術は与えなかったのです。
ロックに音楽に歌詞に、生きる喜びと苦しみと、同時にほとばしる感情を、どうしようもない苛立ちを、吐露する2人。
見た目に希有な2人ですが、ただそこだけが他人と違うだけで、姿形はとても美しい・・・!
双子役の現実にも兄弟の(新人!信じられない演技力でした)トレッダウェイ兄弟は間違いなく、ブレイクすることでしょう、綺麗・・・!
が、その違いの大きさは何ものにも代えがたく、観客の好奇心はより興奮をあおり、時代のブームにのってまたたくまにカリスマ・バンドになる。
そして振り回されることに耐えるために酒を呑みクスリをやる。音楽は同時に堕落する道も与えたのです。
トムとバリーは対照的な性格、と関係者(役)は語ります。
ですが、私には、一人の人間に必ず混在する部分がそれぞれ表に現れているだけで、2人はとても似ているように思えました。
ギターを覚えることに従順に従うトム、一方さからい抵抗するバリー。
(冷静に見てもくっついてるので、弾き辛そうだ。)
結果バリーはボーカル担当になり、心の闇をなんどもさらけ叫び、唄う。
「2:1+1=3」。
これは、劇中双子が作った曲の歌詞。
計算の出来ない、予測の出来ない‘突然変異’な自分達を比喩したと思われます。
正直この手の作品は苦手な分類です。
ですが、まるで「飲みつけないアルコール、なれない甘くないむしろ苦くしょっぱいカクテルに病み付きになって、ハマっていく」が如く、スクリーンから目を離す事が出来ませんでした。
彼らを飯のタネにしていこうとした、周りの大人達は映像で見るかぎり、そう底意地が悪いワケではなく、過去を吐露する姿には、アーチストとしての2人を認めている部分もあります。
が、いかんせん、当たり前の大人として、身体のことは置いておいても、愛情や生き方を説くものは誰もいなかった。
愛情という鎧を持たない若者がどんなに無力で脆いか。皆その心の声を知っていたのに、本気で知ろうとはしなかった。
トムを愛していた、というローラ(この女最低だ)にいたっては、あれは愛ではない。「愛」の字はついても愛欲、ただの欲を示しただけだ、と思いました。
愛情があったのは実の姉だけ。しかしそれは弱く非力で彼らの救いにはならなかった。
ロックに救われ、ロックに殺された。
とても無菌で綺麗なのに、既に心は閉ざされている。
彼らの成長振りをドキュメンタリーとして撮っていた(風の)カメラに向かい、見据える四つの瞳。
突き刺すまなざしに、私自身もその存在を知らないアタマの中の‘扉’をガンガンと叩かれたような、衝撃でした。
「BROTHERS OF THE HEAD」公式HP
「BROTHERS OF THE HEAD@映画生活」
初めに書いておきたいのですが、今回この試写を応募して当てることが出来たのは、関係者なのか(!?)、通りすがりの善人なのか、その名も「ブラザーズオブザヘッド」さん。
お陰で観れましたよ、ありがとうございました。
さて、「結合体双生児」と聞いて、思い出すのはベトナムのベトちゃんドクちゃん兄弟ではないでしょうか。(ドクちゃんは今月結婚式を挙げるとか・・・おめでう!)
彼らは現在個々に生きていますが、医学の進んだ今の世でも切り離し手術は困難(共有する内臓や機能によっていろいろあるらしい)なことだそうで、主人公のトムとバリーはわき腹の一部がくっついた、そのままでその短い人生を終わります。
映像の折々に出てくる医師(役)の話しでは、循環器(心臓系)の一部を共有しているので、仮に切り離しを検討しても結果かなり難しいものがあったのでは?とのこと。
そんな現実を物心つくころから味わっていた2人は、幼い時から自分の希有な生まれと、これからの人生に何の夢も希望も持てていなかったように見えます。
ですが、幼い子供時分の映像は、ころころと笑顔で駆け回り、まるで天使が‘二人三脚’でもしているような具合で、可愛くて美しくて、仮に個々にすることが可能であってもばらけさせてはならないような(なんかよい書き方が出来ません、すみません)、変な気持ちが沸いてしまいました。
この話は戯曲の中に、ドキュメンタリー的な要素があり、その2人の人生を振り返る様な作りですが、まるで今迄ソコに彼らが生きていたかの様な、妙な感覚に堕ちる‘引き込まれ感’のある独特な作品でした。
(↓ここからネタばれあり)
※但し、読んでも害無し。どれほど読み知っても映像を見ない限り知りえない衝撃が今作にはあります。
シャム双生児として生まれたトムとバリーは自分達の生により、母も亡くし、頑なになった父により年頃の17~18歳まで外界や他人と完全隔離(離れ小島・・・もとい離れ半島)生活を姉と4人きりっで過ごします。
こんな暮らしがよいはずもなく、愛情の欠乏と人間らしい暮らしの欠如は、より如実に2人の心に歪みの元を作っていきます。
また身体のハンディは、当然ながらいつでもどこでも2人一緒の世界をつくります。
独りきりの寂しさはないけれど、また逆に2人でしか行動出来ない現実は、自我の芽生えた2人に時にわずらわしく、また空想の‘友’を御伽噺のように作り出させたりと精神衛生上のハンディも背負わす。
イギリスらしい曇った空のもと、上半身裸の少年は奇妙だけれど大人の男にはない中途半端な性の香りと、ミステリアスな雰囲気を醸し出しています。
ドームやガレのガラス作品のようにくぐもった色に死んだ虫々。
彼らの心の闇を表す映像は美しくも儚く、危険で、それでなくても弱い彼らのもろさそのものでした。
「自立」いう名の体のいい人身売買を、父により「契約」という形で交わされた2人は、ロッカーになるべく教育されます。仲間として集まった人々は、2人を好奇の目では見ていたし、金と名声と音楽という麻薬(本当の麻薬もあるが)である種マヒしていた。
あまりに無知な無防備な彼らに、音楽の喜びを教え与えはしたが、世の中を生きる術は与えなかったのです。
ロックに音楽に歌詞に、生きる喜びと苦しみと、同時にほとばしる感情を、どうしようもない苛立ちを、吐露する2人。
見た目に希有な2人ですが、ただそこだけが他人と違うだけで、姿形はとても美しい・・・!
双子役の現実にも兄弟の(新人!信じられない演技力でした)トレッダウェイ兄弟は間違いなく、ブレイクすることでしょう、綺麗・・・!
が、その違いの大きさは何ものにも代えがたく、観客の好奇心はより興奮をあおり、時代のブームにのってまたたくまにカリスマ・バンドになる。
そして振り回されることに耐えるために酒を呑みクスリをやる。音楽は同時に堕落する道も与えたのです。
トムとバリーは対照的な性格、と関係者(役)は語ります。
ですが、私には、一人の人間に必ず混在する部分がそれぞれ表に現れているだけで、2人はとても似ているように思えました。
ギターを覚えることに従順に従うトム、一方さからい抵抗するバリー。
(冷静に見てもくっついてるので、弾き辛そうだ。)
結果バリーはボーカル担当になり、心の闇をなんどもさらけ叫び、唄う。
「2:1+1=3」。
これは、劇中双子が作った曲の歌詞。
計算の出来ない、予測の出来ない‘突然変異’な自分達を比喩したと思われます。
正直この手の作品は苦手な分類です。
ですが、まるで「飲みつけないアルコール、なれない甘くないむしろ苦くしょっぱいカクテルに病み付きになって、ハマっていく」が如く、スクリーンから目を離す事が出来ませんでした。
彼らを飯のタネにしていこうとした、周りの大人達は映像で見るかぎり、そう底意地が悪いワケではなく、過去を吐露する姿には、アーチストとしての2人を認めている部分もあります。
が、いかんせん、当たり前の大人として、身体のことは置いておいても、愛情や生き方を説くものは誰もいなかった。
愛情という鎧を持たない若者がどんなに無力で脆いか。皆その心の声を知っていたのに、本気で知ろうとはしなかった。
トムを愛していた、というローラ(この女最低だ)にいたっては、あれは愛ではない。「愛」の字はついても愛欲、ただの欲を示しただけだ、と思いました。
愛情があったのは実の姉だけ。しかしそれは弱く非力で彼らの救いにはならなかった。
ロックに救われ、ロックに殺された。
とても無菌で綺麗なのに、既に心は閉ざされている。
彼らの成長振りをドキュメンタリーとして撮っていた(風の)カメラに向かい、見据える四つの瞳。
突き刺すまなざしに、私自身もその存在を知らないアタマの中の‘扉’をガンガンと叩かれたような、衝撃でした。
「BROTHERS OF THE HEAD」公式HP
「BROTHERS OF THE HEAD@映画生活」
by bijomaru0330am | 2006-12-12 23:45 | 試写会