「ヒア アフター」を観る
2011年 02月 10日
いまや大巨匠、クリント・イーストウッド監督の最新作「ヒア アフター」を観てきました。どうして仲々難しい作品でした。人生の最後に訪れる一回きりの経験で、その経験を誰も誰にも語ることの出来ない事“死”。
監督は何を観るものに伝えたかったのか。考える時間を与えられる作品です。
↓ここから若干ネタばれ(ってネタばれはナイですな、今回は。)
パリで有名はTVのアンカーをしているマリー(セシル・フランス)はバカンスで訪れた東南アジアのビーチで大津波に巻き込まれ、一度は死に掛けた。その臨死体験から‘心のどこかにひっかかり’を覚えている。
サンフランシスコに住むジョージ(マット・デイモン)は、かつて凄腕の霊能力者として引く手あまただった。しかしともすれば‘自分を失いそうになる’その生活を捨て、今は普通にそれ以上に静かに生活している。
ロンドンで母子暮らしのマーカス少年は、双子の兄を突然の交通事故で亡くす。何かにつけ兄に頼っていたマーカスは‘心に大きな穴’が開いてしまったようだ。
それぞれ三人が主人公のストーリーが別々に語られます。
鑑賞している我々は至って淡々と傍観出来た気がします。確かにマリーが巻き込まれる大津波のシーンは、実際にあったあの大きな惨事そのままでドキドキしますし、マーカス少年の悲しみもジョージの閉塞感もしっかり伝わってきます。
でも、イーストウッド監督の演出は派手なものではなく、本当に静かに、私が実際にマリーやジョージやマーカスの傍でみているような(ちょっと不思議な)感じになるんです。そう、ちょっと以前に鑑賞した「ラブリーボーン」の時にも同じ様な感じを覚えたな、と思い出しました。
バラバラの三つの話・3人が終盤に「不思議」というにはありきたりな言葉ですが「ふっ」と結びついて終焉を迎えるんです。よかった、というのか、そうなるべき、だからそうなったのか、余韻を残して終わります。
「死」について3人の相対する局面は若干の違いがあって「死をみたもの」「死を理解出来てみれるもの」「死を理解できないもの」と解釈している。それぞれ通常ではそうそう経験すること少ないこの「死についての経験」をどうにか乗り越えて生きて行きたいと、目に見えない‘もがき’を覚える3人を通して感じるのはどんなことか、きっと人それぞれ違う何かがあるでしょう。
3人の体験で経験は辛く悲しく可哀想と思えることかもしれない。
特にマーカスはまだ子供で、仕方ないとは言え依存症の母とも離れ離れになる。
しかし、何でも(簡単に言ってはいけない事もあるが)きっと何か意味があって出会ったり、「何か」があったりするんだ思います。またこの3人の結びつきにはちょっと神秘的な運命的なモノも感じましたね(特に最後のマリーとジョージ・・・ネタばれナイショ)。
この作品では「死」について表現することで逆に「生きること」について語られてるが、なにも「生き死に」だけではなく「なにかしら」のきっかけで人は生きていく「なにか」を見つけたり見出したりするんじゃないのか。
それはこれまた逆に「ないかしら」のきっかけで八方塞になってしまう逆説もある訳で、でも、きっとそんな時にもきっと世界中のどこかに、きっと私の、貴方の‘きっかけ’が存在していて「ふっ」と紐が解けるように先が見える時が来る、ってことでもあるんだと思いました。
まどろっこしい感想になっちゃったけど、なろうと思わずに誰かのなにかきっかけになれる人物は、それだけで価値があると思うし、「どこかで1ミクロンでもいいから‘何か’になってたらいいな」(映画作品を鑑賞するきっかけになったのが私のレビューとか、えへへ。)と生きている意義を少し考えた今夜の紫でした。
「ヒア アフター」@ぴあ映画生活
監督は何を観るものに伝えたかったのか。考える時間を与えられる作品です。
↓ここから若干ネタばれ(ってネタばれはナイですな、今回は。)
パリで有名はTVのアンカーをしているマリー(セシル・フランス)はバカンスで訪れた東南アジアのビーチで大津波に巻き込まれ、一度は死に掛けた。その臨死体験から‘心のどこかにひっかかり’を覚えている。
サンフランシスコに住むジョージ(マット・デイモン)は、かつて凄腕の霊能力者として引く手あまただった。しかしともすれば‘自分を失いそうになる’その生活を捨て、今は普通にそれ以上に静かに生活している。
ロンドンで母子暮らしのマーカス少年は、双子の兄を突然の交通事故で亡くす。何かにつけ兄に頼っていたマーカスは‘心に大きな穴’が開いてしまったようだ。
それぞれ三人が主人公のストーリーが別々に語られます。
鑑賞している我々は至って淡々と傍観出来た気がします。確かにマリーが巻き込まれる大津波のシーンは、実際にあったあの大きな惨事そのままでドキドキしますし、マーカス少年の悲しみもジョージの閉塞感もしっかり伝わってきます。
でも、イーストウッド監督の演出は派手なものではなく、本当に静かに、私が実際にマリーやジョージやマーカスの傍でみているような(ちょっと不思議な)感じになるんです。そう、ちょっと以前に鑑賞した「ラブリーボーン」の時にも同じ様な感じを覚えたな、と思い出しました。
バラバラの三つの話・3人が終盤に「不思議」というにはありきたりな言葉ですが「ふっ」と結びついて終焉を迎えるんです。よかった、というのか、そうなるべき、だからそうなったのか、余韻を残して終わります。
「死」について3人の相対する局面は若干の違いがあって「死をみたもの」「死を理解出来てみれるもの」「死を理解できないもの」と解釈している。それぞれ通常ではそうそう経験すること少ないこの「死についての経験」をどうにか乗り越えて生きて行きたいと、目に見えない‘もがき’を覚える3人を通して感じるのはどんなことか、きっと人それぞれ違う何かがあるでしょう。
3人の体験で経験は辛く悲しく可哀想と思えることかもしれない。
特にマーカスはまだ子供で、仕方ないとは言え依存症の母とも離れ離れになる。
しかし、何でも(簡単に言ってはいけない事もあるが)きっと何か意味があって出会ったり、「何か」があったりするんだ思います。またこの3人の結びつきにはちょっと神秘的な運命的なモノも感じましたね(特に最後のマリーとジョージ・・・ネタばれナイショ)。
この作品では「死」について表現することで逆に「生きること」について語られてるが、なにも「生き死に」だけではなく「なにかしら」のきっかけで人は生きていく「なにか」を見つけたり見出したりするんじゃないのか。
それはこれまた逆に「ないかしら」のきっかけで八方塞になってしまう逆説もある訳で、でも、きっとそんな時にもきっと世界中のどこかに、きっと私の、貴方の‘きっかけ’が存在していて「ふっ」と紐が解けるように先が見える時が来る、ってことでもあるんだと思いました。
まどろっこしい感想になっちゃったけど、なろうと思わずに誰かのなにかきっかけになれる人物は、それだけで価値があると思うし、「どこかで1ミクロンでもいいから‘何か’になってたらいいな」(映画作品を鑑賞するきっかけになったのが私のレビューとか、えへへ。)と生きている意義を少し考えた今夜の紫でした。
「ヒア アフター」@ぴあ映画生活
by bijomaru0330am | 2011-02-10 23:45 | 試写会